・人格形成に知識として武道以外の政治や歴史、その他雑学を学べたのは大きく、その中には成功哲学も含まれていた。
・学生時代は日本史に興味がなかった。
武道を始めてから歴史に興味を持つようになり日本人としての誇りを持つようになる。
道場に通ったお陰で学校教育による日本史の自虐史観から解放された。
・2000年の11月に入門した。初心者には合気道と空手のコースがあり、合気道を選んだ。棒術がセットで他に古武術も数種類学んだ。入門してすぐの決意は「武道は生涯やり続ける」だった。
・最初の目標設定は最短で合気道弐段。4月と10月の半年に一度、昇給試験があったので、2回飛び級をすると3年でなれる計算。実際は飛び級は1回だけだったので、3年半で初段(黒帯)を取得。
・初段から弐段以上を目指す場合、昇段審査で90分の演武をしなければならない。技を数えると120本程度。一度も間違えず、掛け続けなければならない。一緒に昇段を目指す者と組み、体力の向上と技の精度を高める為に、およそ半年間の準備期間を要す。審査後は全身筋肉痛である。
・1月の稽古初めに鏡開きがある。その際、高段者のみで合気道や居合、古武術の演武をする。その演武がもの凄く格好良くて、色帯時代は観る側ではなく、早く演じる側に行きたがっていた。
・道場訓ではないが、常々、師が言っていた格言がある。「気付きは人の進歩」「普通で良いと思えば普通以下になる」「約束は死んでも守れ」「親より先に死ぬのが親不孝」「生きること、生き抜くこと、生かされていることを感じなさい」、今でも大切にしている。
・名古屋への移住が決まった時に、名古屋でどんな武道をしたいか真剣に考えた。札幌にいた時はパソコンを持っておらず、ガラケーのインターネットから名古屋の道場を探す。当時、候補に上がったのが柳生新陰流と宝蔵院流。師に相談したところ、「柳生新陰流だったら直接見た事がある。本物が残っていたはずだ」と教えて頂いたので、入会のキッカケとなる。
・柳生会は2008年の7月に入会した。名古屋に来たのは5月末である。名古屋に行ってすぐに地下鉄の広告で徳川美術館にて柳生新陰流の演武と講演があることを知る。見学したい考えていたので、この時は「引き寄せた」と思い興奮した。思考は現実化する。
・入会した時の年齢は28だが、先代からの高弟で自分の倍以上の年齢の方と稽古をする。自分の方が体力が有り余っている若者であったのに、一度の立ち会い稽古を終えると肩で息をしているのは自分の方で、相手は息も乱れず余裕の表情で微笑んでいた。
・高弟の方に稽古を付けてもらった後、言われた言葉で今でも大切な思い出がある。
「君は荒いが面白い、Aさん、Bさんは斬り合いじゃないスポーツだ。生死はない。だが君は違う、稽古の中に生死がある。本気で斬りにきている。気迫が違いすぎてワクワクするよ」
宗武舘の頃から稽古時代からの癖で、常に緊張していたからだろう。技を受けそこなうと大怪我をする。常に意識していた。
その緊張感のない稽古は武道の稽古とは言えないと今でも思っている。
・高校生の時に吹奏楽の顧問の先生に接して、将来自分は先生と呼ばれる職業になるだろうなぁと朧げに予感。
宗武舘に入門して、師の偉大さに感銘を受ける。武道の先生になりたいと思った。
2014年に崇真舘を開いたことにより、その夢は叶ったと言える。但し肩書に興味がある訳ではなく、本人は先生と呼ばれることに優越感がある訳ではない。
・立ち上げに際し、宗武舘の看板をお借りしなかったのは、名前をお借りする以上、名を落とすような事は絶対に出来ないという気持ちと、男として自分の名前で勝負したいという想いがあったから。
進退に関して自由に出来るが、バックアップが得られないのは続けていく上での苦労がある。
・習いごとを始めたいと思う時、必要なのは踏み出す勇気を持っている人。習いごとが続く人は、目標設定が自分で出来る人。高いレベルに行く人は、自分は上達すると信じている人、また常に無意識レベルで考えている人。
・習いごとを途中で辞める人は、大概人のせいにして辞める。
・人生で起きたこと全て自分の責任に出来る人は、器の大きい人。